言葉の森を、歩いていこう

本と将棋が好きです。備忘録的な意味合いが強いですが、何かコメントをいただけると励みになります。

本居宣長

評論家小林秀雄の代表作からいくつか抜粋。

まだ全然読み切れていませんが。。。

「「蓋し先王は、言語を以て人を教ふるに足らざるを知る、故に礼楽を作りて、以てこれを教ふ」とある、―その言語とは、この空言巧言の意味であり、先王は言語を軽んじていた、などと言っているのではない。むしろ逆なので、空言への鋭敏が、その言語認識の深さを示す、と言いたいのだ。」

「古人には、言語活動が、先ず何を置いても、己の感動を現わす行為であったのは、自明な事であろう。比喩的な意味で、行為と言うのではない。誰も、内の感動を、思わず知らず、身体の動きによって、外に現わさざるを得ないとすれば、言語が生まれてくる基盤は、其処にある。感動に伴う態度なり動作なりの全体を、一つの行為と感得し、これを意識化し、規制するというその事が、言語による自己表現に他ならないという考えは、ごく自然なものであろう。」

上代の人々は、言葉には、人を動かす不思議な霊が宿っているということを信じていたが、今日になっても、言葉の力を、どんな物的な力からも導き出す事が出来ずにいる以上、これを過去の迷信として笑い去る事は出来ない。「言霊」という古語は、生活の中に織り込まれた言葉だったが、「言霊信仰」という現代語は、机上のものだ。古代の人々が、言葉に固有な働きをそのまま認めて、これを言霊と呼んだのは、尋常な生活の智慧だったので、特に信仰と呼ぶようなものではなかった。言ってみれば、それは、物を動かすのに道具が有効であるのを知っていたように、人の心を動かすのには、驚くほどの効果を現す言葉という道具の力を知っていたという事であった。」

「人の有るが儘の心は、まことに脆弱なものであるという、疑いようのない事実の、しっかりした容認のないところに、正しい生活も正しい学問も成り立たぬという、彼の固い信念、そこに大事がある。」

言葉の軽くなった時代に生きる言葉を大切にしたいと願うひとりとして、非常に身につまされる思いがします。

Le pessimisme est d'humeur ; l'optimisme est de volonté.(悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する)