言葉の森を、歩いていこう

本と将棋が好きです。備忘録的な意味合いが強いですが、何かコメントをいただけると励みになります。

来年の抱負など

放送大学の英語訳がthe open university of japan だと知って少し感動しました。

さて、来年は放送大学なりなんなり、少ししっかりとした形で学びを深めていきたいと思います。

それと同時にどうやって自立していくのか。

振りかえってみると思いのほか後悔の少ない年でしたが、かといって誇れるものもとりたててない一年になってしまいました。

来年は何かを成し、後悔の少ないような一年にしたいと思います。

 

蜷川幸雄の稽古場から

蜷川幸雄小林秀雄と似ていると勝手に思っている。

人、特に若者の才能を引き出そうと懸命な点。

そのやさしさに包まれた厳しさ

透徹した人間・世界理解

それに基づく独自の世界観

偉大な先輩の遺産、どうにかして分け前を少しでも自分にも・・・と一瞬考えたが、故人でもない方についてそんなことを考える愚に思い至って考えるのをやめた。

演劇や文学、思想といった分野はかつて悦楽の源でこそあれ根源的に(何が根源かなど知るよしもないのに)無意味なものだと捉えていたので、興味こそ持てど、それを突き詰めることには躊躇を感じたものだった。

今はそれが逆転してしまった。

いずれまたそれが逆転する日が来るのかもしれない。

万物は流転する。

rolling stone gathers no moss.(スペルや単複が非常に怪しい)

さて。漫然と過ごす日々に、風化していった英語や漢字の知識。

まずはそのあたりの修復を進めることが前進への第一歩かもしれない。

謎とき 村上春樹 再論

小説にはいくつか執筆意図があるように思うが、こと夏目漱石村上春樹といった小説における意図に関連して。

石原が提示する「謎とき」としての小説読解は、ことこの二人(竹山道雄三島由紀夫平野啓一郎もこれに加えていいのではないかと思う)に適合的なものと考えられる。

というのも、これらの小説は自分の「言いたいこと」を森の中にちりばめることを目的としたものだからだ。

ここで重要なのは、それはあくまで「言いたいこと」であって必ずしも「伝えたいこと」「理解してもらいたいこと」であるとは限らないことだろう。

彼らは言わば、東西の断裂の上に立つ異端者であり、普通の手法ではそれが受け入れられることが困難であることを経験的に、ないし感覚的に把握している。

したがって、彼らにとって長編小説とは評論のオルタナティブとしてのそれであり、世界理解における鋭敏なる本音を包み込み、一見受容可能なソフトな形へと変換する装置であるということができる。

内容に関しては、物語論としての解釈(表題はたしか「物語論で読む村上春樹」)に石原の説よりも共感を覚えた記憶があるので、次はそちらを再読してみようと思う。

悲劇人の姿勢

西尾幹二の根幹となっているであろう人物(小林秀雄福田恒存ニーチェ他)についてまとめた作品であり、当然のごとく力作である。

ただ、自分には不可解なのが、彼らの明快な論をあえて小難しく明晰ではありつつも迂遠な形で記述しているように映る点。

小林秀雄に関して強く感じたが、他についても少々。

少なくとも自分ならあれよりはもう少しわかりやすく極力精密さを失わずに彼らを記述できると思う。

一言で言うと、意気込みが上滑りしてしまっている部分があるように思えて少し残念だった。

内容に関しては大変素晴らしいものだと思います、念のため付言。

music portraits

NHKのミュージックポートレイトが好きで、真似をして別のブログを始めてみました。

こちらは何というか、割と普通に文章を載せていくつもりです。

よろしかったら併せてそちらもよろしくお願いします。


music portraits

自戒

・軽々しく言葉を使っていないか。軽率なる言葉は発したそばから自分を他人を傷つける凶器と化す

・相手を思いやっているか。思いやり寄り添わなば、言葉は届かず奈落へと沈み込む

・発した言葉は回りまわっていつか自分に還ってくる。心して言葉を記せ。語りうることのみを語れ。沈黙に耐える勇気を持て