「本居宣長」をめぐって 対談
江藤淳と小林秀雄の対談(というよりは小林秀雄に江藤淳が質問をしに出向いた、という印象のもの)から、『本居宣長』理解の上で有益に思えた箇所、自分がなるほどと思った箇所を抜粋してみます。
小林
「碁、将棋で、初めに手が見える、勘で、これだなと直ぐ思う、後は、それを確かめるために読む、読むのに時間がかかる、そういう事なんだそうだね。言わば、私も、そういう事をやっていたのだね。」
江藤
「私は、今度の「本居宣長」を拝見して、小林さんが楽しんで書いていらっしゃるといいますか、先ほどおっしゃったように、盤面を眺めながら次の手をどう打つかなと反芻していらっしゃる時間の充実感が、文章の行間に生きているように思いました。そういう点で、まだ小林さんのご著作に余り親しんでいない若い読者が読んでも、ごく気軽に入っていけるのではないかと思ったのです。」
小林
「結局、あの人の学問は道の学問なんです。」
「学問が調べることになっちまったんですよ。道というものが学問の邪魔をするという偏見、それがだんだん深くなったんですね、どういうわけだか。」
「明治末期、大正初年から、すでに学ぶ喜びが欠落しはじめたということになると、日本人の身についた本当の学問というのは、荒涼とした戦国の余塵を受けながら、中江藤樹のような人が学問に志したときから宣長の出現に至るまでの、たかだか百五十年ほどの間にできあがったということになるのだろうか、その学問こそわれわれがいつもそこへ還っていかなければならない本物の学問なのだろうか、という切実な感想を抱きました。」
「宣長の時代の神代の物語の注解は哲学であって、神話学ではない。神話学というのは―私には、あまりおもしろいものではない。」